留学記

【孤独と戦う留学記】17歳で一人アメリカへ行った話②スクールスタート〜クリスマスシーズン

アメリカのミネソタ州ついた頃は、8月の下旬だったが沖縄の夏とは違い心地よい風が吹く沖縄の秋に近い気温だった。

私のホストファミリーの家は、首都のミネアポリスから1時間弱の場所にある田舎町で、沖縄では見ることがない三角屋根の家が立ち並んでいて、煙突がちゃんとあることに感動した事を覚えている。

目次

ハイスクール準備

ついた翌日にはアメリカの学校での手続きが始まった。ギリギリクラスはまだ始まってはいなかったが、部活動が始まっていたのでバスケットボール部に参加する事にした。

部活のユニフォーム購入代に60ドルもかかった。かなり痛い出費だった。

というのも、所持金はたったの800ドルだったからだ。

当時はクレジットカードも持っていなかったので、少ない現金でどうにかしなければならなかった。

親の考えは、現地についてから銀行開いたら?という楽観的な考えだった。(結局、銀行口座は作らなかった)

学校が始まるまでの間、部活動に参加して友達を増やそう。そう思っていた…

イッシー

1年間の留学での銀行口座開設はオススメしません。

銀行口座開設、CashPassportなど作りましたがクレジットカードがなんだかんだ一番楽でした。

バスケットボール部へ入部

レギュラー選抜試験は既に終わっていたので、二軍のメンバーと練習することが決まった。

初日は全く英語がわからない私はホストファザーに連れられて、バスケットの練習に参加した。

バスケットボールは小学校の頃にやっていたので、基礎はできている方だったが、アメリカの学生に混じってプレイするには身長やパワーが全然違う。

それでも練習をこなせないわけではなかった。友達や監督が言っていることは分からないが、スポーツは見様見真似でできるからだ。

ただ、チームメイトと移動するバスの中はずっと一人で、バスの後方に座っていた。チームメイトも最初の頃は話しかけてきてくれていたが、何を言っているのかわからなければ、私が話す英語は全くと言っていいほど伝わらなかった。

よく、留学に行く前の英語力が留学生活を左右する!と言われているが、本当にそうだと高校と大学の留学経験を経て思う。

新学期スタート

9月に入り、新学期が始まった。私が取ったクラスは、

理科、英語、アメリカ史、家庭科、体育、インターンシップ、コンピューター、数学のクラスだ。

アメリカの高校は、日本の高校と違いクラスは自分で選択することができるので、最初は簡単なクラスを履修した。

日本のように、日によって授業教科が異なるわけではなく、毎日同じ教科の授業を受けなければならない。
家庭科、体育、デイケアボランティア、コンピューター、数学のクラスは留学生でも簡単に単位を取れると教えてもらったので、そのクラスに決めた。

英語とアメリカ史、理科は1年間を通して本当に難しかった。

英語は物語を読んで感想を書く日本の国語が英語になったというかんじで、英検3級レベルの私にこなせるわけがなかった。

アメリカ史はビックリするほど教科書が分厚く、一目見てついて行くのは無理だと思った。

留学生だしなんとかんるだろう。それはとても甘い考えだった…

最初の授業

先生からの質問に答えることができず顔が赤くなり突然大粒の涙が目から溢れ出した。

アメリカ史の最初の授業での出来事だ。

白板に並べられる文字も、先生とクラスメイトの言葉も、全くと言って良いほどわからない。

これからわかるようになるとも思えない。 

私は、何からどのように始めたら良いのかわからなくなってパニックになっていた。

「わかるわけねー笑笑」

そう笑い飛ばせたら気持ちは楽だったのだけど、気持ちを切り替えることすらできなかった。

どうにかアメリカ史の授業が終わるのをひたすら待った。

ようやく鐘がなりホッと人息つく暇もなく、周りのみんなが急いでロッカーへ行くので私もロッカーへ急いだ。

7分で次のクラスに移動しないといけないからだ。

家庭科のクラス

 次のクラスは家庭科で内容はチャイルドケアについてだった。

先生が一通り説明した後に、教科書からみんな何かをうつしている。何をしなければならないかもわからない私は勇気を振り絞り、

“What should I do now?
と聞いてみた。

先生は優しく、何をするのか教えてくれた。
教科書から答えを探して書いてねとの事だったが、答えが何かもわからない。
ただ、意味が通じたことに少しだけ嬉しくて落ち込んでいた気持ちが若干晴れた。

イッシー

このクラスは履修して正解でした。

赤ちゃんの育て方とかを学ぶことができ、日本とアメリカの子育ての違いについて学ぶことができたからです。

英語のクラス

英語のクラスに関しては、先生から難しかもしれないからとESL(英語を第二言語として話す人たちのクラス)を勧められた。大体のクラスメイトがメキシカンの子たちだ。

そのクラスは4名の少人数で、ありがたいことに先生もクラスメイトもみんな優しかった。そのクラスだけは本当に心の救いだった。
(おまけにスペイン語も学べた事で、大学進学後に県内で行われたスペイン語スピーチコンテストに参加し賞を取ることができた。スペイン旅行では全く役に立たなかったが…笑)

イッシー

移民の国アメリカではESL(第二言語としての英語)のクラスがあることがほとんどでした。

このクラスを履修したことで英語教員になりたいと思うようになり、大学は教職課程があるところへ進学しました。

その他のクラス

体育とコンピューターと数学は問題なくこなせた。日本では商業高校に通っていたので、コンピューターは得意だった。

インターンシップは近くの保育園に行って小さな子どもと触れ合うだけのクラスだった。

子どもは私が英語を話せないことなんかお構いなしに、何かを話してくる。私も子ども達には英語が間違ってるかどうか気にせずに話しかけることができた。

絵本を読んであげたり、一緒に歌を歌ったり、英語初心者の私にとっては最高の環境だった。

今思えば、クラスの取り方は上手だったと思う。アメリカ史以外のクラスは特に難しくはなく、帰宅してからはアメリカ史の宿題をこなせば良いだけだったからだ。

先が思いやられるスタートだったが、なんとか学校と部活を終えホストファミリーが迎えてくれる車に乗り込み家に帰った…

クリスマス

気がつけば、気温はマイナスの日が続き、街並みはすっかりクリスマスシーズンだ。我が家でもThanks Givingを終えてすぐに、クリスマスの準備が始まった。アメリカはハロウィン、Thanks Giving、クリスマスと冬はイベントが続く。冬は気持ちが落ち込むというが、こんなにイベントが続くと毎日が楽しかった。

大きなクリスマスツリーの飾り付けを終えた翌日には、ホストファザーがクリスマスプレゼントを置いていた。翌日もその翌日もプレゼントが増えた。

私は日本の家族に日本にしかないものを送ってもらいそれをクリスマスプレゼントにしようと思っていた。それが届いた頃には、12月も中旬をすぎていた。送られてきた箱の中には、電子辞書も入っていた。

クリスマス当日は、離れて暮らすお兄ちゃんたちが集まり、教会に行ったあとに、みんなでご馳走を食べた。ホストファザーがゲームを用意してくれていて、景品も豪華だった。

その後に、みんなでクリスマスプレゼントを開けた。私は合計10個のクリスマスプレゼントをホストファザーからもらった。

本場のクリスマスは思っていたよりも盛大で、沖縄にいたらできないことをまた一つ経験することができたと、留学へ行くという選択をした自分自身に感謝していた。

学校であった人種差別

クリスマスが終わり、正月という文化がないアメリカは1月2日から学校が始まった。少しだけ学校生活にも慣れ、ESLのクラスや幼稚園でのインターンシップのお陰で、日常会話は少しづつ上達していた。アメリカ史は相変わらず全く付いていけなかったが、送られてきた電子辞書のお陰で教科書を読むスピードは早くなった。(笑)

いつも座るアメリカ史の授業の机に腰掛けた時に、私のスケジュール帳が机に置かれていた。前日に忘れてしまったようだ。

スケジュール帳を開くと、「You are F*** ing  Chinese」

次のページまでうつるくらい強い筆圧で書かれたメッセージを目にした。みんなが使う教室だ。誰が書いたのか、なんのために書いたのか全くわからない。思い返せば、クリスマスの掲示物が私のものだけ破られていた事があったが、まさか私を嫌っている人がいるなんて思いもしなかった。

なぜなら、英語も話せない私は友達もいなければ、敵もいない。そう思っていたからだ。

ホストファザーにすぐに相談すると慰めてもらえると思ったが、返ってきた言葉は意外だった。

「君は中国人ではないじゃないか!何をそんなに落ち込んでるの?イッシーは学校でも暗くいつも笑って居ないと知り合いの先生から聞いた。そんな留学生はあまり居ないよ。」

その言葉を聞いた私は、私の気持ちに立って考えてくれないホストファザーに対してもショックを受けたのを覚えている。しかし続けて話してくれた。

「世の中は不平等な事であふれている。納得いかないことの方が多い。それにどれだけ耐えられるかが大切なんだ。」そう言ってハグしてくれた。

ハンディキャップを抱えたお兄ちゃんと2番目の子どもを置いてホストファザーの元奥さんは出ていってしまった話を聞いた事があった。いつも優しくニコニコしているお父さんだが、一度だけ涙を流しているのを見た事がある。ハンディキャップのお兄ちゃんが、いきなり怒りだし窓ガラスを割った直後だった。きっと一人で、お父さんはいろんなことを悩みながら今まで生きてきたのだろう。そう思うと私の悩みが小さく感じた。

高校の米国留学では人種差別を受けたという話を聞く事が多い。

アメリカの文化を学びたいと留学をしていても、現地の人は留学生の異文化を受け入れるなんて考えたことがない人たちもいる。自国の文化を押し付けてきては、日本の文化が変だとストレートにいう人もいた。私の行動に対して変だと言われてもすぐに直すのは難しい。

1年間の留学を通して私が最も学んだことは英語ではなく、異なる意見を持つ他者とどのように生活していくのかという事だった。

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