留学は一人時間が長く孤独を感じる時間が多くなります。しかし、留学という限られた時間だけでも孤独から何かを学ぶことが出来れば、語学を学ぶ以上の何かを得ることができることでしょう。
この記事では、私の留学体験で起こった人種差別や人間関係など留学中にしか体験できなかったことを物語のように書いています。
書きながら昔を思い出し、最後は号泣しながら書いていました。
①~⑧話と長いですがご覧いただけたら幸いです。

目次
17歳で留学を決意した理由
高校受験で失敗した私は、友達のいない高校に進学した。田舎で野生的に育った私にとって那覇の高校は合わなかった。入学直後から編入や再度高校を受け直すか悩む日々が続いていた。
そんな中、一つ上の仲のいい先輩が県費でアメリカに留学すると聞いて、私も受けてみようと決意した。高校に行かなくてよくなるということが一番の目的だった。編入や高校の受験をし直すことに対しては大反対だった親も留学ならとあっさり許可をしてくれた。
親の説得は簡単だったが、留学試験は簡単ではなかった。得意教科は英語だったが、英検は中学1年生の時に取得した4級のみ。中学2年生の時に3級を落ちてそれから受けていない。留学テストは聞いたこともないSLEPテストというテストだった。当時の沖縄には教材もないので、とにかくひたすら英検の過去問を解いた。
県費留学の試験は高校からの推薦がないと受けられないが、学校側がその様な補助金を県が出しているということすら知らなかった。隣の高校では毎年3人も留学に行っている人がいる中、私の高校はこれまで一人もいなかったらしい。先輩からもらった情報をもとに先生に問い合わせてみると、ようやく先生も動いてくれ、県費の試験を受けれることになった。
結果、不合格。
テストの点数は足りているので私費で行くチャンスはありますがどうしますか?と手紙がきたが、私費の場合120万円を払わなければならなかった。「遠くの学校に行くならバス代がかかるからお小遣いは五千円ね。」という家庭だ。うちにそんなお金などない。
母に報告だけでもしてみたら、意外にも「行きたいなら行ったら?」という返事だった。私はその日から留学へ行く準備を始めた。
留学準備

留学決意をしてすぐに始めたことは、英語の勉強ではなくアルバイトだった。できるだけ親には迷惑をかけたくないという思いから、時給640円のファミレスでバイトを始めた。しかし、肌が弱かった私は手荒れが酷くなったのですぐに辞めざるを得なかった。結局貯められたお金は5ヶ月で20万円弱。「お金の心配はいらないよ。」という母。どういうことかと聞くと、公務員の叔父から既にお金を借りているとの事だった。
小さい時から面倒をみてくれていた叔父にはいつも感謝をしていたが、お金を借りることには少し申し訳ない気持ちもあった。叔父に感謝の気持ちを伝えに行くと、「いいよ〜!頑張って〜!」だけだった。お金を返した時には、そんなに俺貸したか〜?と言われた(笑)
私も、子どもはもちろん甥っ子や姪っ子が夢を追いかけている時に、お金を出して欲しいと言われたら「いいよ〜」って言えるおじさんになりたい。金額にもよりますが(笑)
大学生なら引っ越しのバイトやリゾートバイト で短期で稼げるから良いですよね。
高校生だったので、そうは行きませんでした…


オリエンテーションでの挫折〜1日目〜

お金の心配は無くなったから英語の勉強に励もう!と思い、英検の過去問を解いたり、DVDで好きな映画をみたり(当時YouTubeはまだメジャーではなかったしNetflixなんて存在しなかった)今思えばゆるーく英語の勉強をしていた。
そんな中、行けることが決まって数ヶ月後の11月中旬頃に留学財団からオリエンテーションのお知らせとともに膨大な資料が送られてきた。オリエンテーションのお知らせ以外は全て英語だった。翌年の7月出発に向けて12月からオリエンテーションが行われる。約半年間で一泊二日のオリエンテーションが3回。よし!留学にいくんだ頑張ろう!という決意がより一層強固になった。
しかし、1回目のオリエンテーションで挫折を味わうことになる。オリエンテーション会場に集まったのは約60人の高校生だった。当時の沖縄は留学への奨学金がかなり充実していて、毎年高校生が60人海外留学していた。大会議室に集められ、オリエンテーションの流れの説明を受けた後すぐに、送られて来た資料を理解しているかのテストと、県費留学の試験でも出されたSLEPテストが行われた。内容理解に関しては20点満点中8点、SLEPテストは合格最低ラインが22点に対し私は18点しか取れていなかった。
テストが終わってすぐに、グループに分けられて英語で自己紹介をしてくださいと言われテンパった。送られて来た資料の中に宿題が出されていたことをわからなかった私は、名前と好きなスポーツはバレーボールです。と言ったことは覚えているが、あとは緊張しすぎて何を話したか覚えていない・・・初日から最悪なオリエンテーションだった。その日の夜、スタッフに声をかけられて別の部屋に呼び出された。テストの点数と自己紹介の準備不足から心配してくれたようだった。帰国子女と英語科の学生が多い中、私は完全に英語ができない問題児だった。なんとか1日を乗り越え、翌日のオリエンテーションへの不安を抱えながら眠りについた。
ちなみに、スタッフは留学から帰って来た帰国生で、みんなボランティアの大学生や専門学生だった。部屋に呼び出されたときは、とても怖かったのを今でも覚えているし、あの頃には戻りたくないとみんな言う。(笑)しかし、その方々が話してくれる体験記や勉強法、物事の考え方は今も私の生き方に良い影響を与えてくれている。
オリエンテーション2日目
2日目はどんなテストが待っているのかとハラハラドキドキだったが、留学を終えた帰国生からの体験談を聞いたり、異文化理解に対するグループディスカッションをしたりして1日が終わった。帰国生の体験談の中に、カヌーに誘われて乗り気じゃなかったけど、行ってみたら意外と楽しくてその後も何度かカヌーに連れて行ってもらった話がとても印象的だった。「興味がない、つまらなさそうと思って何も始めなければ、もしかしたら楽しいかもしれないことに出会えないことになる」と言うメッセージだった。私は興味関心が高い方ではなかったが、その日から何事もやってみようという気持ちになった。1日目に比べ、2日目はとても楽しいオリエンテーションだったのを覚えている。友達もたくさんできてメアドを交換し(当時はラインなどない笑)解散した。
その後のオリエンテーションは宿題について教えてもらったり、勉強を教えてもらったりと情報交換をしてなんとか乗り切った。
後は出発を待つだけだった。
ホストファミリーの決定
「ホストファミリー(受け入れ家族)がまだ決まりません。」8月上旬になってもアメリカでのホストファミリーが決まっていなかった私は本当に行けるか不安で一杯だった。
今なら分かるが、テストの点数や英語力でホストファミリーも留学生を受け入れる。誰だって言葉が通じない子よりも言葉が通じたほうが良いからだ。
ギリギリになってホストファミリーが決まった。ミネソタ州というカナダのすぐ下に位置する場所だった。
ホストファミリーの家族構成は、お父さんと成人して家を出ている息子二人だった。お父さんは小学校低学年の先生をしていたので、とても分かりやすい英語でメールのやり取りをしてくれた。一番上のお兄ちゃんはハンディキャップを抱えており、週末は家に帰ってくるとのことだった。二番目のお兄ちゃんは看護師の専門学校に通っていた。
アメリカへ出発〜孤独の始まり〜
洋服は現地で買おうと決めていたので、必要最低限の洋服とホストファミリーへのお土産、アメリカ史の教科書、高校の友達からもらった寄せ書きだけをスーツケースに詰めて空港へと向った。(※当時はパソコンもスマートフォンも電子辞書も持っていなかった。今思えばよく生き延びれたなと思うレベルだ。)
見送りにきてくれていた友達や家族と別れを告げて飛行機に乗り込んだ。その時の気持ちは、英語はどれだけ伸びるだろう、部活は何をしようか、授業に はついていけるだろうか、悩みは尽きなかったがそれ以上に楽しみの方が大きかった。
沖縄から成田までは同じ留学仲間20人くらいと一緒に行動したが、成田からロサンゼルスに行く飛行機では10人くらいに減っていた。ロサンゼルス空港からシカゴへ行くまでには3人、シカゴからミネソタ州へ向かう飛行機は私1人になっていた。
私の孤独との戦いはここから始まった。
ミネソタ州の首都ミネアポリスについたときは22時を回っていた。出迎えてくれたホストファミリーを見つけて安堵し、家族写真を撮ったのを覚えている。
What do you want to drink?
簡単な英語で問いかけるお父さん。
本当はチョコレートドリンクを飲みたがった、チョコレートの発音が全然伝わらない。。。
Orange juice!
Oh! Ok! ガッチャ!(gotcha)
ガッチャ?初めて聞いた英語に戸惑った。スペルの検討もつかない。。。これから本当にこの地でやって行けるのか・・・
それよりも星がとても綺麗で、沖縄にはない高い木々が立ち並ぶ田舎道の風景を見ながら、この地に来れたことに感謝した。もう既にこれまで体験したことのないことを経験し、これから始まる留学生活に心を踊らせ、やっとスタート地点に立てた!そんな気持ちで一杯だった。
これから始まる学校生活が波乱に富むことは想像もできなかった。
